密室の窓

「密室の窓」
《聖暦千三四一年 白き赤の月 十七日》

 セレスターラ西宮殿の奥に隠された部屋があることは、限られた者にしか知られていなかった。天の陽から薄布で守られた白い密室。どこか危うさをたたえた静謐の中に、彼女は長いこと一人で残されていた。ここへに呼ばれてどのくらい経つのか。時を計る術はない。
 喉が渇く。長い緊張は身体の硬直をもたらし、少しでも動かせば軋みそうで、うつむくことすら容易ではない。息苦しさを紛らわすために瞼を伏せていても、それが薄れるわけではなかった。
 だめ、震えてはいけない。臆してはならない。
 誰にも、この動揺を気取られることだけは避けなければ。常に毅然たる態度を取るべきなのだと、幾度思い知らされてきたことか。「あの方」との関係が露見してしまったら、今まで犠牲にしてきた思いが全て無駄になってしまう。
 私も、あの方も、破滅だ。
 そう強く思い直し、また瞳に深い青の光が戻る。

 女性と呼ぶにはやや幼さを残す容貌の彼女は、名をサーシャといった。貴族としては決して有力な家柄の出身ではなく、普段から彼女が身につけている装飾品はどれも豪奢なものではない。しかしそれが返って生来の華やかさを際立たせていた。
 しなやかな亜麻色の髪は冠のように僅かな光を含み、その金色が煌く度に人々は振り返った。この国に彼女を知らぬ貴公子はいないとまで言わしめるまでの不思議な存在感をもちあわせている。地方貴族ウィスタリア子爵の令嬢サーシャ・ウィスタリアは、そんな特別な娘だった。
 そんな彼女だったから、興味本位で求婚するものは後を絶たなかった。彼女が国王の新たな愛人と――婚約者となるまでは。
 しかし最近になって、彼女には他に思い人がいるのではないかという噂が、宮廷でまことしやかに囁かれていた。国王という婚約者がありながら他人と通じるなど許されない。王国ばかりか創造神アーティアに背くことである。それを利用して身分の低い家柄出身の彼女を失脚させようとする者たちがいるのは当然のことだった。
 サーシャ自身、それはよく分かっていた。だからこそ、誰になにを聞かれても自分の思いは口にしないと決めていた。常に無口で無表情、腹の中で何を考えているのか分からないと陰口を叩かれても、それこそが彼女にとって「あの方」を、すなわち「思い人」を守る唯一の方法だった。

 自身の細い影が、丁寧に磨きこまれた床へ投げ出されている。くるぶしから首筋までを隠す深い色のドレスをあつらえてくれるのは、いつも妹を思う姉だった。
 愛する方にお会いするならば、きちんとお洒落しなくてはと、いつも彼女にもっとも似合う衣装を選んでくれていた。
 ――愛する方。
 声にはしない。空気にすら溶けず、音は口の中で消えていく。
 陛下は私を愛してくださっている。では私も愛せるだろうか、「あの方」以上に陛下のことを。
 息を着いて、答が囁かれるはずのない沈黙に耳を傾ける。
 いや、自分に迷う余地はない。陛下の望む通りに振る舞っていればいい。側にいればそれで良いと国王陛下はおっしゃった。だから私はそれに従うだけ。
 怖れはせず、ただ信じていよう。この婚姻は自分や家族――ウィスタリア家の幸せにも繋がるはずなのだから。
「待たせたかな」
 そう決意していたにも関わらず。
 長い沈黙を破って扉を開けた主は、見慣れた長身の青年だった。あまりのことに、息を呑まずにいられない。
「アメシウス様……」
 どうして、という疑問に代えて、呼ぶでもなく彼の人の名を呟く。そうすることでサーシャはようやく現実を取り戻した。頬紅など差さずとも仄かに紅潮していた頬からは血の気が引き、みるみる色を失っていく。
 それほど彼は来るはずのない人物であり、同時に彼女が今いちばん会いたくない青年でもあった。
 嘘だ。本当は心のどこかで期待していた。その期待が裏切られた時のために、この人が来るはずがないと思い込んでいただけだ。自分を傷つけないために、自分の心を守るために。
 しかし、彼は来てしまった。
「呼び出してしまってすまなかったね」
 何度も櫛が通されているだろう艶やかで長い漆黒の髪。それと同じようにすらりと伸びた身体は特に筋肉質なわけでも、か細いというわけでもない。今にも闇に紛れてしまいそうな黒い地味な装束ではあったが、腰に下げられた剣の飾り柄に彫られた王家の紋章は、彼が特別に高貴な身分であることを自ずと証している。
 彼こそはセレスターラ聖王国の王位継承者であり、彼女の秘密の恋の相手、その人だった。
「……ごきげんよう、王太子殿下」
 あえてサーシャは膝を落とし、頭を屈めて正式な挨拶をした。
 彼女の態度はアメシウスをあからさまに困惑させた。どこか寂しげに顔を歪めたが、それはほんの一瞬の出来事だったので、彼女が反応を知ることはなかった。
「わざわざ偽名まで使ったんだ。楽にしていいよ、ここには君と俺しかいないんだからね」
 言いながら外襟の埃を払う。
 本当に誰もいないのだろうか。扉の外には侍従長が控えているのではあるまいか。まだ半開きになっている扉の向こうの闇を見つめるサーシャに、アメシウスは柔らかく笑みつづけた。
「疑り深いね。俺が君に嘘を吐く理由があるとでも言いたげだ」
 どんなに柔和な表情をしていても、人をはっとさせるような深い輝きを秘める双眸は隠せない。灯る光は何よりも青年の存在に特別な力を与えている。
 その紫の眼に見つめられると、沈めていた心が揺らいでしまいそうで、サーシャは意識的にアメシウスを避けていた。国王との契約――婚約を受け入れて以来、なるべく彼の人とは顔を合わせないように努力してきたのだ。
 アメシウスもまた同じのはずだった。少なくともサーシャ自身は、離れていても思いは同じなのだと信じていた。それを支えにして、彼女は窮屈な宮殿での扱いを堪え忍んできたのだから。
 だからこそ、彼の意図が計り知れない。
「自分の部屋から抜け出すのにも一苦労だよ。最近では俺の行動を逐一監視する者まで出てきたからね。まったく、厄介なことだ」
 向こうの正体は大体見当がついているけれどと、やや視線を泳がせてアメシウスは付け加えた。
「それだけ俺には信用がないということだし、一方で君が王妃になる事を歓迎する者ばかりじゃない、ということだよ」
「承知しております。私は、どんな覚悟もできておりますから」
「ふうん、覚悟か」
 問いともとれぬアメシウスの相槌に臆することはないのだ。自分はもうアメシウスと出会った頃の怯弱な自分ではない。眉一つ動かさぬ毅然とした態度を保ちつつ、サーシャはかすかに頷いた。
「ときに、この度はどのような御用事でございましょう。お忍びで私と会ったことが知れましたら、ご自分のお立場もますます悪くなってしまうのではございませんこと」
 握りしめた両の拳を隠しながらサーシャは勇気を振り絞った。半ば諦めたような表情を浮かべ、畏まって尋ねる。
 そうするしかなかったのだ。これ以上その瞳で見つめられたら、ようやく平静を取り戻しつつあった心を、今度こそ掻き乱されてしまいそうだった。
「どうしても伝えたいことがあってね。きっと、これが最後だから。騙して呼び出したことは許して欲しいよ」
 そこまで言うと、長身の青年は扉をきっちり閉め、ゆっくりとサーシャへ歩み寄った。
 何の迷いもなく、ただ真っ直ぐこちらをとらえる表情は決意に満ちている。ただならぬ気配に思わず後ずさりをしてしまいそうになったが、サーシャは耐えた。
 負けず嫌いの彼が、初めて「最後」という言葉を使ったから。
「実はね、近いうちに王室で裁判が行われるかもしれないんだよ。内々にだが」
 アメシウスは表情を変えぬまま、ごく普通の他愛もない話をする口調で言った。
「例の公爵家の連中が父上に進言したんだ。君と俺の関係を疑っている奴らだよ。知っているだろうけど、君を新たな王妃として認めない者たちの領袖みたいなものだからね、彼らは」
「……そうなのですか」
 憂いこそ秘めているが、彼女の返答もまた落ち着き払っていた。自分を追放しようとしている人物がいることは簡単に想像し得ることだ。
「売られた喧嘩は買う主義でやってきたけれど、今度ばかりは相手が悪いね。これを外さなければならないかもしれない」
 おもむろに黒い手袋を外し、王位継承者を証す指輪をサーシャに見えるように差し出す。見る限りは何の変哲もない銀の指輪が鈍く輝いていた。
「わたくしがどう裁かれようと、殿下のご将来には関係のないことですわ」
「裁判の被告は君ではない。この俺だ」
 一瞬、アメシウスの口端が笑みに歪んだ気がした。
 安易に受け流すには余りにも重要な情報だ。どういうことかと尋ねようとしたサーシャを遮り、アメシウスは更に続ける。
「まあ、俺のことはいい。王太子の称号なんかに未練はないからね。 それより、心配なのは君と」
「わたくしと……?」
 心なしか、彼の微笑に暗い翳りが灯った。
 本当は聞き返さずともその続きは察せる。彼女は無遠慮な視線を感じる下腹部を庇うように右手を添えた。
 サーシャは身籠もっていた。他の誰でもない、アメシウスの子を。
 その事実さえなければと何度も思った。そしてそんな恐ろしいことを思ってしまう自分を何度も責めた。
「昨夜、陛下の……父上の寝室に初めて呼ばれたんだってね」
 サーシャは言葉を失った。どのような返答を望まれているのか、彼の真意が読めない。
 しかしそれ自体は問題ではないといった風に、アメシウスは続けた。
「父上は何もなさらなかったろう?」
 唇を固く結んだまま、弾かれたようにアメシウスを見上げるサーシャの蒼い瞳。視線同士が絡み合って、部屋の空気が急激に変わった。
「隠さなくたっていい。俺は知っているんだよ。前王妃、すなわち俺の母上のことだが、彼女が死んでから父上は女を抱けなくなった。君みたいな綺麗な人と褥を共にしても、それ以上何をするでもないってね。セレスターラの守護者だからじゃない、父上はそういう病気なんだよ」
「私は別に構いませんわ。そのようなことだけが夫婦の繋がりだとは思っておりませんから」
「それを公爵家の連中が勘付いているとしても?」
 寂しそうに、アメシウスは息を着いた。彼の表情の変化に不意を突かれたサーシャの心が疼く。
「本当は差し違えてでも父上を殺してやりたい。君を俺から奪っておきながら、君を愛してやれない父上がこの上なく憎い。だがセレスターラは守護者としての父上を必要としている。父上を殺すことは、セレスターラ王国全てをも殺すことに等しい。君が何よりも守りたがっている家族をもだ。そうでなければ、俺は……」
 アメシウスは長い指の甲を差し出し、サーシャの頬を撫でた。懐かしい感覚に涙が溢れそうだった。哀しいことに、身体が憶えているのだ。心も、本当はいつだって。
 時が制止して、ひどく間があったように思えた。サーシャもアメシウスも、その場に凍り付けられたように動くことができずにいた。
 もしも今、逃げましょうと提案すれば、セレスターラ王国の運命と引き替えに、二人――いや、お腹の子を含めた三人で幸せになれるかもしれない。どこか遠い異国で一生を隠れながら暮らすことになるとしても。
 ここは全ての均衡が狂い出してもおかしくない分岐路。どう進んでも後戻りはできない最後の砦なのだ。
下手に言葉を発したら、張り詰めた聖域を汚してしまう。
それはつまり、限りなく零に近いあらゆる可能性をも吹き消すことに他ならない。簡単に手放すには余りにも惜しい、全ての希望を。
――だからお互い、言葉を発することを躊躇していたのかもしれない。
 気が遠くなってしまう程の沈黙。視界さえ狭まりそうな長い時間を経て、先に世界を壊したのはサーシャだった。
「……そのようなこと、軽々しく仰ってはいけませんわ。今と昔では貴方もわたくしも、置かれている立場が違いすぎます。わたくしは貴方を陥れている側の人間かもしれないのですよ」
 完全に気圧される前に自分の意思に釘を差しておかなくてはならない。
ようやく唇だけで笑顔を作り、彼女は青年から顔を背ける。鼓動が高鳴りすぎて、アメシウスにまで聞こえてしまいそうだった。
「軽々しく? 俺が危険を冒してまで、こんな戯言を弄するような狂った男だとでも?」
「私は陛下に……あなたの御父君に嫁ぐはずの女ですわ」
「いつだってそうだね。はぐらかして俺を見ようとしない。どんなに真剣に見つめていても、俺を見つめ返してはくれない」
「あなたをまともにお相手していたら、私だって冷静でいられませんもの!」
 思わず叫んでしまう。鼻腔の奥が差し込むように痛んだ。
 アメシウスを見返した瞳は、やや潤んでいたのだろう。違う、こんなつもりではないけれど。
「サーシャ……」
 泣いているように見えたかもしれない。その自覚はあった。彼が自分を見下ろす双眸に、急に翳りが広がっていったから。
 心のどこかが熱い広がりに満ちていた。この場から逃げてしまいたいのに、それが叶わない。奥底ではこの人に奪われることを望んでいるのかもしれない。
 それでもサーシャは必死に感情を堪えて眉間に深く皺を刻む。さも深刻事ではなさそうに、薄紅色の唇が声色を落とした。
「わたくしは貴方ほど強くありませんから」
「俺だって君が思っているほど強くはないんだよ」
 誤解だと言わんばかりにアメシウスが肩を落とす。
「だから、わたくしを抱かれたのですか!」
 ご自分よりも弱い女を抱いて、ご自分を慰めたのですか。
 決してそうではない事を最も知っていたのに、そんな空虚なことでしか反論できない今の自分は、人生の中で最も惨めだった。
「どうしてそうなる」
 アメシウスが息をつく。いつの間にか笑顔は消え、重い表情になっていた。自分の失言に怒っているのだろう
いっそ、自分を憎んでくれればいい。そうすればこの人の哀しみも決意も薄らいでくれるかもしれないのに。
「話を戻すよ。俺と君の関係を嗅ぎ回っている者がいるのは事実だ。遅かれ早かれ露顕されるだろうね。そうしたら君の身だって危うい」
 お腹の子もね、と、言い辛そうに付け加えた。
「だから父上……陛下には、俺が君を犯したと言えばいい。すべて俺だけの罪にすればいい。いいね、そうすれば君も、その子も助かる。父上がどれだけ君を本気で愛しているか知れないが、あれで結構したたかな人だよ。傲慢さはセレスターラ一だ。俺のことは嫌いだろうが、自分の意思は押し通す。周囲に反対されてもね」
 あまりのことに、サーシャはただでさえ大きな瞳を見開いて絶句した。
 一方アメシウスはその双眸に有無を言わせぬほど強い力を含んだ光をたたえたまま、そんなサーシャを射抜くように見つめている。その眼差しに吸い込まれたら、どうして逃げることなどできるだろうか。
「もう一度言う、何があろうと俺を弁護してはいけないよ」
 お願いだから憐れみを誘わないで。そんな眼で見ないで。今度こそ、おかしくなってしまう。
「そんな……あなたは意地悪です……」
 鈴が細かく揺れて鳴るような声で、吐き出すように呟く。口を突く言葉とは裏腹な気持ちで頭が満たされていた。この人はいつも自分に「はい」としか言わせない。
 強引で、頑固で、自分勝手で、誰よりも優しい人。
「いけません、そのようなことを仰っては。同罪です。あなたも、あなたを止められなかったわたくしも」
「駄目だ。万が一にでも許されたら俺は死ねなくなる。軽くなろうと罪は罪だ。君が父上に嫁ぐところを見ながら、君のいない場所で永遠に生きていかなければならなくなるんだよ。どちらが残酷か、君には分かるよね?」
 アメシウスの口調には迷いなどは微塵もなかった。何度も熟考し、得た結論なのだろう。
「君を愛している。でも君に俺を愛してほしいとは望まない。俺は口先だけの言葉で満足できるほど子供ではないよ。もう、あの頃とは違うんだ、何もかも」
過去を思い返しているのか、アメシウスははにかんだように頬を緩めた。この状況でなぜ昔を想って笑えるのか。彼がまだ幼かった頃から接していても、やはりこの人は理解できない。
「ならわたくしにだって、あなたにそれほど愛される価値があるとは思えませんわ!」
 どのような理由であれ、自分は打算で国王陛下を選んだ女なのだから。
 アメシウスは返事の代わりに、唐突に彼女の両肩を抱いて唇を重ねてきた。
 それ以上を求めようとはせず、サーシャを覗き込んだ紫色の瞳が再び柔らかく微笑んだ。普段は気高く厳しい表情をしている彼の、普段は見せることのない表情に魅入られて、すべてを許してしまったのは自分。
 あの時もこうだった。この人は自分を包み込んでくれた。不安なことも、この人に触れていれば忘れることができた。アメシウスの体温は、サーシャにとって不可欠なものだった。
 それなのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 抱き締められたサーシャに抵抗などできるはずもない。それは心のどこかで彼女自身が望んでいたことなのかもしれないのだから。
「……さっき『覚悟』と言ったね。それはなぜ?」
 吐息を感じるほど近くでアメシウスが低く囁く。サーシャはもう何も言えなかった。喉から溢れる嗚咽をこらえるだけが精一杯だった。
「覚悟というのは喜ばしいときに使う言葉じゃないよね」
 額に額を合わせたまま、一言一言を確かめるように紡がれる言葉が、ゆっくりとサーシャを支配する。
「それだけでいい。それだけでも俺にとっては、十分すぎるほどの救いになる」
 サーシャの肩をつかむ手が微かに震えた。首筋は熱を孕んでいるのだろうか、やや汗ばんでいる。もしかしたらサーシャ以上に彼は恐れていたのかもしれない。
 彼女に触れられなくなるという現実を、何よりも。
 言葉を失ったサーシャは、ただ肩を震わせるだけだった。翳る表情に言いしれぬ悲壮感を漂わせたまま。
「頼むから、泣かないでくれ」
 半ば縋るように呟いたアメシウスの願いは叶えられそうもない。
 信じたくなかった。もう二度と、この顔を見ることができないなんて。もっとも愛した声を、この言葉を、二度と聞くことができないなんて。
 現実を受け入れるには、残された時間は余りにも短い。
 そのとき何が正しかったのか、とうとうサーシャには分からなかった。

 だから今でも夢を見る。

 この選択が最善だったのか。自分は間違いを犯してしまったのではないか。
 もちろんどんなに悩んだ所で取り返しがつくはずもない。もうあの日には戻れない。
それに、たとえどの道を選んだとしても、生きている以上は迷いが消えることなどないだろう。後悔は痛みにしかならず、惑いは歩みを遅らせる障害にしかならないのに。
 それでもサーシャは、あのときアメシウスが噤んだ言葉の続きを何度も想像し、反芻した。封じたあの部屋から繋がるはずだった、自分たちの行方を。

その先に拓けていたかもしれない、既に失われた未来は、なぜかいつも現実よりも映えて見えた。

《聖暦千三四八年 黒き黄の月 三日》

「……結局、私は陛下に、あの人を愛していたと申し上げてしまったのです」
 サーシャ王妃――ソフィアにとっての若き義母は俯いたままだった。アメシウスの実妹である王女を目の前にして、懺悔をするかのように膝上へ組んだ自分の手を見つめている。白い絹質に似た肌は、数年前から全く変わっていない。
「殿下だけの責任ではございません。私の心の弱さが起こした罪にございます。私をお裁き下さいませ、殿下を御放免くださいませ、と。あとはあなたもご存知の通りです。殿下は牢獄へ移され……」
 少しずつ記憶を辿るように、一言一言をゆっくりと噛みしめる。
 傍らでソフィアは出された菓子と茶に手を付けることもなく、そんなサーシャを見つめていた。

 西宮殿の奥の白い部屋は、今はサーシャの私室の一つとなっている。ソフィアがここへ足を踏み入れたのは今日が初めてだった。何度か招待されたことはあったが、呈の良い理由を付けては断り続けてきた。
 だから今日に限って気が向いたのは特別だ。亡き兄の友を名乗った人に兄の遺言を聞き、サーシャ自身の視点から、その認識を確かめたくなったからだ。
 しかし話を聞いたところで、ソフィアは彼女がしたことに納得がいかなかった。兄であるアメシウスがどれ程真摯な想いで彼女を愛していたのか知っている。かつて幸せに満ちた恋人同士だった二人を知り、憧れていた頃すらあったのだ。自分もこのような恋愛がしたいと。
 サーシャが弁護したことで罪は減ぜられ、アメシウスは死罪を免れた。しかし代わりに魂すら封じられるという牢獄へ送られることになった。それから数年後に病死したというアメシウスは、今この時も深く夢を見ているのだろう。
「怒らせてしまったでしょうか」
 サーシャの問いにもソフィアは答えない。言葉が出てこないのだ。薄々知ってはいたとはいえ、事実をサーシャ本人の口から聞かされて、やはり困惑せずにはいられなかった。
 或いは、その感情は怒りだったのかもしれない。固く握り締めた拳の感覚は既に失われている。
「当然です。わたくしはあなたに許されるべきではないのでしょう。あなたのお兄様を貶めてしまったのですから。それなのに私はここで生きています。何事もなかったかのように、平穏に」
 サーシャは立ち上がり、閉じたままの扇で口元を隠した。
「けれど、わたくしはそうするしかありませんでした。わたくしは刹那の恐怖に怯えていたのです」
 双眸に灯される淡い光。サーシャ王妃が巷で囁かれている程の悪女でないことは誰でも一目すれば分かる。第一もしそれを罪と呼ぶならば、彼女だけに償う義務があるわけでもない。それも分かっている。
 それでも、どうしても、ソフィアはサーシャに心を開くことはできなかった。
 この花のように可憐な人に笑みかけてしまったら、全てにおいて負けてしまう。それだけは意地でも避けたかった。
「あなたにも、大切な方がいらっしゃるのでしょう?」
 黙り込んで久しいソフィアに、王妃は優しげな蒼い眼差しを向けて問いかけた。
 サーシャが王室に嫁いできて以来、これまで二人はまともに話したことはない。同じ宮殿下で過ごしていても、相手が何を考えているのか知る機会すらなかった。
 後妻の王妃と前王妃の王女――即ち義理の母娘。兄の昔の恋人と昔の恋人の妹。いずれの関係にしても複雑すぎて、互いが近寄りがたい相手であることは間違いない。言うなれば、ただの他人よりも遠い存在なのだ。
 だからそれはソフィアが気軽に答えられるはずもない、唐突で不躾な問いだった。
「……ごめんなさい、詰問している訳ではないのですよ。伺うまでもありませんでしたね。分かります、女ですもの」
 ソフィアは否定も肯定もせず、ただサーシャを見つめる。アメシウスと同じ紫色の瞳で。
「あなたは受け入れられますか?」
 そこでソフィアは、初めて「何のお話でしょう」と問い返した。
 ようやく反応が返ってきたことが嬉しかったのか、サーシャは静かに目を細める。
「その方が、その手で自分を殺めてくれと仰ったら」
「……そんなことは有り得ません」
 ソフィアはできるだけ素っ気なく答えた。
「そうしなければご自分は不幸になると願われても?」
「私は愛した人を不幸にはさせません。裏切るような真似もしません。決して、何があろうと」
 命を奪われる以上に、どんな不幸があるというのか。
ソフィアは鋭く視線を投げかけ、やっと言った。もちろんそれは本心だったが、口に出してしまうと何て軽々しいものだろうと自嘲する。
「そうですか、あなたもお強いのね。あなたに想われている方は幸せですね」
 サーシャの物言いが抑揚もなく穏やかだったので、ソフィアは素直に耳を傾けた。
「ですが、強さと脆さは同義なのかもしれません。折れてしまった剣は元に戻らないでしょう? 殿下もそういう方でしたから……」
 まるでアメシウスがまだそこにいるかのように、サーシャは敬慕ともとれる表情を浮かべている。
 サーシャは窓際に掛かる薄布を引き、ほんの少し窓を開いた。窓からは陽が差しこみ、淡い風がそよいだ。部屋全体が暖かな光に包まれる。
 王妃の座に着いたときから付きまとっていた冷たい印象は、今のサーシャには感じられなかった。亜麻色の髪が光を受けて、目が離せなくなる程に艶やかに煌めいている。
 こんなにも彼女の後ろ姿は小さく儚い。兄が彼女だけを愛した理由が分かるような気がする。兄はただ、彼女と自分の想いを守りたかっただけなのかもしれない。
 とても綺麗で、弱々しくて、何て狡い人なの。
 女の自分までこんな風に思わせてしまうのは、サーシャの魔力なのだろうか。それとも、死んだ兄の意思なのだろうか。
 ソフィアは複雑な思いで、ただ彼女の後ろ姿を眺めていた。
「陛下には感謝しています。シエルはこれからも陛下の第三王子として育つでしょう」
「……将来、シエルに真実をお話しになるのですか?」
「いいえ、そのつもりはありません」
 ソフィアの問いに、サーシャははっきりと首を振った。
「たとえあの子が望んだとしても、知らなくていい真実はあるのです。あの子の父が誰であろうと、セレスターラが選んだ後継者であることに代わりはないのですから」
 ならばなぜサーシャは自分に過去の話を伝える気になったのか。今、あえて自分に真実を知らせる意味があるとは思えない。
「でも、無かったことにしようとしている訳ではありませんよ。わたくしは憶えていたいから……そして、あなたにも知っていてほしいから、こうして全てをお話したのです。ごめんなさい、これは全てわたくしのわがままです」
 こちらが言いたいことを見通していたかのごとく、サーシャはそう続けた。
 本当に狡い。先に謝られては文句も言えない。
 ソフィアは肩を落とし、吐きかけた溜息を呑み込んだ。
「この窓から、ちょうど見えるのです。中庭でシエルが、あなたに遊んで頂いている様子が」
 窓の外を窺う仕草をしながら、ありがとうと言ってサーシャが温かく微笑む。ソフィアは初めてサーシャの母親としての表情を見た気がした。
「最近やっと、少しだけ落ち着いてあの子を見ていられるのです」
 だから何も言えずに話を聞くことしかできないでいた。
都合の良さを非難したいのに、彼女のシエルへの想いに水を差すべきではないとも思う。シエルだって本当は、腹違いの姉である自分よりも実の母に愛されたいはずなのだから。
「あの子には何の罪もないけれど、今まではどうしても駄目でした。色々と思い出してしまって。母親としてあの子を愛することは、できないままかもしれませんが……」
 サーシャの表情には、幾分寂しさが見え隠れしていた。しかしそれが何に対するものか、対象が多すぎて量り知ることはできない。
「それもまた、わたくしが一生を賭けて償わねばならない罪なのでしょうね」

「あの子がセレスターラの守護者になる日までは、こうして見守るつもりです。アメシウス様もそれを望まれていると信じていますから」

 サーシャの部屋を後にする際、サーシャははっきりとそう言った。サーシャの顔は最後まで穏やかなままだった。
ソフィアは結局、彼女に尋ねたかったことの半分も為し遂げられなかった。
「……ああ」
 嘆息する。自分の負けだと認めざるを得ない。
 中庭の花壇はよく手入れされており、色とりどりの花が咲き乱れている。それらを観賞しながら、ソフィアは整えられた道をゆっくりと歩いていた。
 想いに間違いなどあるのだろうか。彼女はそれを、償わねばならない罪だと言う。
 いや、そんな筈はない。どんな想いだって罰されるべきであるはずがない。これらの花がどんな色で咲こうとも、どんな夢を見ようとも、罪であるはずはないのだから。
 涼しい空気を孕んで吹き抜ける風が、花たちとソフィアの黒い髪を揺らした。
うつむいて悩んだままでは、心までが揺さぶられてしまう気がする。このままではどこかへ流されてしまう。
 心許なくなり、サーシャの部屋を振り仰いだ。その窓は再びカーテンと共に閉ざされている。
 二度と自分の前に開かれることはないだろうと、ソフィアは予感していた。